2015年3月10日火曜日

瞑想って何? その2 ~ 心の水面







私たちは皆、心の中に池のようなものがあって、その水面に映った景色を通して世界を見ている。心が乱れ、水面が乱れている時、そこに映る世界もまた乱れる。

僕はそんな風に考えています。





生きていれば、望むことも望まないことも、色んなことがあって、石が投げ込まれ、風が吹いて、雨も降って、嵐がやってきて、必ず水面は波立ちます。

それが自然です。





それでも、干渉せずにただ放っておけば、いずれ波は段々と小さくなり、水面は静かに、平らになります。

瞑想とは、突き詰めるところ、この様なものだ。と僕は理解しています。







前回(→前回はコチラ)、瞑想を続けると「意識をぶらさない力」が育ってくる、と書きました。実はそれは瞑想の一つのステップでしかありません。


その次のステップは、そのつちかった「ブレない意識」でもって、自分の「心」を、自分の「思考」や「感情」を、ただ静かに、干渉せずに、巻き込まれずに「観つめる」ことから始まります。








よく「瞑想=無になること」「瞑想=何も考えないこと」と、勘違いしている方が非常に多いようですが、そうではありません。

もちろん、瞑想を続けていると、その途中で「無になる瞬間」や「何も思いが浮かんでこない瞬間」もありますし、多くはなります。でもそういう「波のない状態」が瞑想で、「波のある状態」が瞑想ではない、というわけではありません。





そうではなくて、怒っているなら怒っている自分の心を、悲しんでいるなら悲しんでいる自分の心を、喜んでいるなら喜んでいる自分の心を、ただ観つめること。それに必要以上に引きずられないこと。巻き込まれないこと。

それこそが瞑想です。







大切なのは、どんな想いが浮かんできたとしても、それを否定することなく、ただ観つめて、受け入れて、手放すこと。


例えば極端な話、もし「誰かを殺してやりたい」という気持ちが浮かんできたのであれば、それはそれで構いません。(ただし行動には決してうつさない方がよいと思いますが。)そういう時は、その殺してやりたいほど憎い、と思う気持ちをただ静かに観つめることです。







浮かんで来る想いには、良いも悪いもありません。

たとえそれがどんなに醜いものであったとしても、全ての想いを、ジャッジすることなく、ただ静かに受け入れることがとても大切です。






現代の物理学、量子力学の世界では、原子も電子も、そして光でさえも、世界にあるものは全て波としての性質を持つ、ということが知られるようになりました。


私たちの心が「どこにあって、何で出来ていて、どこから来て、どこから行くのか」、それは永遠に謎のままでしょう。が、それでも他の全てのものと同じように、心もやっぱり波のように動いていることは間違いない気がします。






怒りも悲しみも、憎しみも喜びも、そして恋する気持ちでさえ、ただ観つめていれば、波の様にゆれ動き、行きつ戻りつ、次第に段々と小さくなってゆきます。


そして、全ての波が穏やかにおさまった時、そこにはごく自然に静けさと、満たされた気持ちがあらわれ、深い幸福感や慈愛が湧いてくる。そんな風に僕は自分の体験から感じています。



(そういう気持ちや状態は多分誰にでも元々「そこ」にあるのに、表面の波に隠されて見えなくなっているだけです。多分。)








初めに書いたとおり、生きていれば水面が乱れるのは普通です。

池に石を投げ込めば波が立つのが自然です。石を投げ込まれても波の立たない池はかえって不自然だし、それを目指すべきでもないでしょう。




ただし、池が湖のように大きくなり、深くなればなるほど、同じ石を投げ込まれても水面の乱れは少なくなるし、またすぐに元の静かな状態に戻るようにはなります。








とかくせわしない現代の生活では、多くの人の心が、次から次へと襲ってくる波に揺れ続け、水面に映る世界は「怒り」や「不安」に歪んでいるように僕には見えます。



こんなせわしない現代だからこそ尚更、瞑想を通して、自分の心の池を大きな湖のように広く、また深くして、「静かな水面」をつくりあげてゆくことが大切なのかもしれません。




瞑想についてはあともう一度くらい書いて終わりにしたいと思います。

→ 瞑想って何? その3








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