2014年10月1日水曜日

言葉の力 〜 コトバが人生を変える?






思うに、本来の「ありのまま」の世界には、絶対的な善悪とか美醜という区別はないのだと思います。



平時に人を殺せば「極悪人」「悪魔」と罵られ、戦争で人を殺せば「軍神」「英雄」と讃えられ、それが戦争に負けたら「戦争犯罪人」と蔑まれるのが私たちのいる世界です。どんな絶世の美男美女でも、ゴキブリからみたらただのばかでかい怪物であって恐怖の対象でしかないだろうし、でかくて力強くて賢いゴキブリ界のカリスマゴキブリ(きっといるのだと思いますが)でも、我々から見たらただの嫌悪の対象でしかないわけで、私たちが勝手に絶対だと思いこんでいる価値判断や基準なんて、そんなに簡単にコロコロ変わってしまう、その程度のちっぽけなものなのでしょう。



それを「美しい」と思うからこそ「美しい」ものがあり、それを「善い」と思うからこそ「善い」ものがある。「美しい」と思う心がなければ「美しい」ものはないし、「善い」と思う心がなければ「善い」ものもなく、そこには世界がただ「そのまま」あるだけ。

今私たちが見ている世の中を、今私たちが見ている様に在らしめているのは、私たちの「意識」であり、「思考」です。そして、その意識や思考をまとめ上げているのが「言葉」で、思考は言葉によって成り立っています。ある意味「言葉」が私たちの見ている「世界」を創っている、と言っても言い過ぎではないでしょう。





昔々読んだある本に、『「分かる」とは「分ける」こと。私たちは、言葉で世界を切り分けなければ、ものごとを認識することができない。「美しい」ものがあるからこそ「醜い」ものがあり、「善い」ものがあるからこそ「悪い」ものがあるわけで、本来は何もない一つのところから、「美しい」ものと「醜い」もの、「善い」ものと「悪い」もの、を切り分けて区別しているのが私たちの「思考」であり「言葉」だ。』

という様なことが書いてあって、「なるほどな~」と思い、それが僕が言葉に興味を持ち、大学で文転して言語学を学ぼうと思った一つのきっかけであったわけですが、それはさておき。





そんな「言葉」で私たちどんな「世界」を切り取っているのでしょうか?

どうせ自由に切り取れる世界であるならば、いっそ美しい世界を切り取ってみるというのはいかがでしょうか?



僕が3~4年前から、「言葉」についてすご~く意識をして気をつけていることがいくつかあって、それは僕の世界を大きく変えたので、是非ここでその一つをご紹介しておきたいと思います。実体験なので確かです。それは



「不平・不満・愚痴・悪口・批判・非難」その他あらゆるネガティブな言葉をできる限り口にしない。そして、そういう言葉を常に多用する人や場に近づかない。



というものです。それまでは無自覚に、そんな「毒」を撒き散らして生きてきましたが、それを意識するようになり、実際やってみて、そういうことを口にしない様になってくると、段々とそもそもそういうことをあまり心にも思わない様になってくるから不思議なものです。





大体、不平や不満や愚痴を言ったからって何の意味があるのでしょう?

自分は思い出して気分が悪くなるし、聞いている人も気分が悪くなるし、悪口や批判に至っては、言われた人の気分はもう最悪。何一つ良いことはありません。「笑顔」の真逆です。



(とは言え、本気で調子が悪い時、どうしても言いたくなる時はあるし、言わなきゃやってられない。そんな時は確かにあります。分かります。なので、そんな時は聞いてくれている人には相~当感謝するようにしています。)





「言葉」を変えれば「思考」が変わる。
「思考」が変われば「行動」が変わる。
「行動」が変われば「人生」が変わる。

僕はそう思います。





多分「思考」をいきなり変えることは普通できませんが、「言葉」はちょっと意識すればわりと簡単に変えることがでます。まずは自分が普段どんな「言葉」をつかっているのか意識してみると面白いかもしれません。多くの人は無自覚に「毒」をまきちらして生きていることに気が付くでしょう。そしてそれを止めると大きく、生き方も周りの環境も変わることに驚くことでしょう。時間はかかるかもしれませんが試してみる価値はあると思います。





ちなみに僕は一昨日思い切りある人の悪口を言いました。ま、でも完璧を目指すと疲れるし、めったにないことなので(つもり)それはそれでいいや。と思っています。「絶対言わない!」とか気負わずに、ゲーム感覚で気楽に楽しんでやるくらいで丁度いいのではないか、と個人的には思っています。



皆さんも、もし今まで意識したことがなかったのならば、是非この遊びを試してみてください。







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