2014年10月15日水曜日

怒りを捨てる その1 〜 一次感情に気が付く





HP(www.totaltuning.jp)のプロフィールにも書きましたが、僕は元々かなり短気です。


「このままではいけない、変わらなきゃ」と本気で思ったのは、今から5~6年前で、その頃すごく好きだった女の子と喧嘩ばかりして、どうしてもうまくいかなかったことがきっかけでした。以来努力して変わろうとしてきて、少しずつ少しずつ怒りに流されることはなくなってきました。


最後に劇ギレして大失敗したのは2年半前で、その後死ぬほど反省したので、誰かに対して衝動的な怒りをぶつけたのは、それが最後だと思います。(多分…。)




今は誰に対してもイラッとすることはめったにないし(何ヶ月かに一度あるかないかくらい?)、あったとしてもそれに流されることは更に少ないつもりです。(もちろんゼロではありません。)こうなってみて、当たり前ですがやっぱりイライラしない方が疲れないし、生きてて楽だし楽しいです。断然。


それはたまたま今いる環境が良いおかげなのかもしれないし、そもそも一緒にいるとイラッとしそうな人達とは付き合わない様にしているせいかもしれないし、歳を重ねるごとに人間は誰しも丸くなっていくと世間では言うので、そのせいなのかもしれません。が、それだけではなく、意識的な努力のおかげでもあるような気がします。



なので、前置きが長くなりましたが、自分には「怒り」というものについて語る資格が多少なりともあるのではないか、と思っている次第です。






さて、怒りを制する第一歩は、それについて知ることです。
そもそも「怒り」って何でしょうか?考えたことはありますか?



現代の心理学では、「怒りは二次感情だ」と言われています。「二次」というぐらいだから当然「一次」があるわけで、「一次感情」というのは怒りの下にかくれた本当の気持ち、例えば寂しさであったり、不安であったり、傷ついた感じであったりするわけです。





どういうことかと言うと、例えば、メールをしたのに相手からは返信がなくてイライラし、「何でメールに返信しないのよ!」なんて言ってしまった場面があったとしましょう。


イラッとする気持ちも分かりますが、もしそこでイラッとしなかったとしたら、どんな気持ちを味わうでしょうか?


その時の気持ちが「一次感情」です。それは例えば「メールが返ってこなくて寂しい」という感情かもしれないし、「大切にされてない感じがする」という気持ちかもしれません。




人によってはただ「寂しいな」で終わる人もいますが、人によってはそこで止まらずに(というより止まれずに)、その気持ちを味わうことが嫌で、無意識的に、自動的に、「怒り」が湧き起こってきます。そして、その怒りによって相手を支配し、自分の望む行動をとらせようとします。


これが「怒り」のしくみです。







でもちょっと考えてみましょう。
怒りをそのままぶつけたからって望む結果が得られるのでしょうか?



大抵の場合は怒りをぶつけられると相手もイラッとするので、お互いに怒りをぶつけ合って何も解決しないまま終わることでしょう。あるいは、相手によっては短期的には怒りと恐怖で従わせることはできるかもしれません。しかし、それをずっと続けることは難しいでしょう。そしてもし例えそれができたとしても、それは健全な関係と言えないし、その状況は恐らくどちらにとっても幸せとは言えないでしょう。





そこで、大切なのは、「自分が本当は何を感じているのか」、そして「自分は本当は何を望んでいるのか」を知ることです。それは例えば先ほどの例で言えば、「返信がこなくて寂しい」という気持ちとか「大切にして欲しい」という想いとかです。


そして、素直にその気持ちや想いを伝えてみましょう。それは多分怒りをぶつけるよりちょっと勇気がいることだし、必ずしもそれが叶えられるとは限りませんが、少なくともただ怒りをぶつけるよりは、自分が本当に望んでいる状況に近づく可能性はずっと高いことでしょう。





ということで、今日のまとめです。

怒りを制する第一ステップは、怒りにのまれずに、「なぜ自分は怒っているのか?」、「本当は何を感じていて、何を望んでいるのか?」を知ること。



今度イラッとする場面があったら、ちょっと立ち止まって考えてみてください。







ちなみに「怒り」は肉体的な疲れとも関係があります。


僕は今でも疲れてくるとイラッとしやすくなるのを自覚しているので、苛立ちを少しでも感じたらまずは休んでみるようにしています。体が回復すると、大半のことは気にならなくなります。それでも駄目な場合は、多分そこにはちゃんとした理由があるので上記のようなことを考えることにしています。





ところで、怒りの裏には自分の価値観や信念が隠されています。例えばそもそも「メールは返ってこなくて当然」と思っていたとしたら、メールが返ってこなくて苛立つことはありません。「メールは返すべき」と思っているからこそ、返ってこないとイラッとするわけです。なので、第二ステップは自分の価値観や信念に気が付くことで、これもすごく大切なのですが、一度にすると話がややこしくなるので次回にゆずります。


➡️  怒りを捨てる2






2014年10月1日水曜日

言葉の力 〜 コトバが人生を変える?






思うに、本来の「ありのまま」の世界には、絶対的な善悪とか美醜という区別はないのだと思います。



平時に人を殺せば「極悪人」「悪魔」と罵られ、戦争で人を殺せば「軍神」「英雄」と讃えられ、それが戦争に負けたら「戦争犯罪人」と蔑まれるのが私たちのいる世界です。どんな絶世の美男美女でも、ゴキブリからみたらただのばかでかい怪物であって恐怖の対象でしかないだろうし、でかくて力強くて賢いゴキブリ界のカリスマゴキブリ(きっといるのだと思いますが)でも、我々から見たらただの嫌悪の対象でしかないわけで、私たちが勝手に絶対だと思いこんでいる価値判断や基準なんて、そんなに簡単にコロコロ変わってしまう、その程度のちっぽけなものなのでしょう。



それを「美しい」と思うからこそ「美しい」ものがあり、それを「善い」と思うからこそ「善い」ものがある。「美しい」と思う心がなければ「美しい」ものはないし、「善い」と思う心がなければ「善い」ものもなく、そこには世界がただ「そのまま」あるだけ。

今私たちが見ている世の中を、今私たちが見ている様に在らしめているのは、私たちの「意識」であり、「思考」です。そして、その意識や思考をまとめ上げているのが「言葉」で、思考は言葉によって成り立っています。ある意味「言葉」が私たちの見ている「世界」を創っている、と言っても言い過ぎではないでしょう。





昔々読んだある本に、『「分かる」とは「分ける」こと。私たちは、言葉で世界を切り分けなければ、ものごとを認識することができない。「美しい」ものがあるからこそ「醜い」ものがあり、「善い」ものがあるからこそ「悪い」ものがあるわけで、本来は何もない一つのところから、「美しい」ものと「醜い」もの、「善い」ものと「悪い」もの、を切り分けて区別しているのが私たちの「思考」であり「言葉」だ。』

という様なことが書いてあって、「なるほどな~」と思い、それが僕が言葉に興味を持ち、大学で文転して言語学を学ぼうと思った一つのきっかけであったわけですが、それはさておき。





そんな「言葉」で私たちどんな「世界」を切り取っているのでしょうか?

どうせ自由に切り取れる世界であるならば、いっそ美しい世界を切り取ってみるというのはいかがでしょうか?



僕が3~4年前から、「言葉」についてすご~く意識をして気をつけていることがいくつかあって、それは僕の世界を大きく変えたので、是非ここでその一つをご紹介しておきたいと思います。実体験なので確かです。それは



「不平・不満・愚痴・悪口・批判・非難」その他あらゆるネガティブな言葉をできる限り口にしない。そして、そういう言葉を常に多用する人や場に近づかない。



というものです。それまでは無自覚に、そんな「毒」を撒き散らして生きてきましたが、それを意識するようになり、実際やってみて、そういうことを口にしない様になってくると、段々とそもそもそういうことをあまり心にも思わない様になってくるから不思議なものです。





大体、不平や不満や愚痴を言ったからって何の意味があるのでしょう?

自分は思い出して気分が悪くなるし、聞いている人も気分が悪くなるし、悪口や批判に至っては、言われた人の気分はもう最悪。何一つ良いことはありません。「笑顔」の真逆です。



(とは言え、本気で調子が悪い時、どうしても言いたくなる時はあるし、言わなきゃやってられない。そんな時は確かにあります。分かります。なので、そんな時は聞いてくれている人には相~当感謝するようにしています。)





「言葉」を変えれば「思考」が変わる。
「思考」が変われば「行動」が変わる。
「行動」が変われば「人生」が変わる。

僕はそう思います。





多分「思考」をいきなり変えることは普通できませんが、「言葉」はちょっと意識すればわりと簡単に変えることがでます。まずは自分が普段どんな「言葉」をつかっているのか意識してみると面白いかもしれません。多くの人は無自覚に「毒」をまきちらして生きていることに気が付くでしょう。そしてそれを止めると大きく、生き方も周りの環境も変わることに驚くことでしょう。時間はかかるかもしれませんが試してみる価値はあると思います。





ちなみに僕は一昨日思い切りある人の悪口を言いました。ま、でも完璧を目指すと疲れるし、めったにないことなので(つもり)それはそれでいいや。と思っています。「絶対言わない!」とか気負わずに、ゲーム感覚で気楽に楽しんでやるくらいで丁度いいのではないか、と個人的には思っています。



皆さんも、もし今まで意識したことがなかったのならば、是非この遊びを試してみてください。